かなり久しぶりの更新です。
お久しぶりです、当ブログ管理人のスミレです。
かなり投稿期間が空いてしまいました。
たまたまXで当ブログの記事について言及されているポストを見つけ、
このブログにたどり着きました(笑)。
この「自己愛性人格障害の闇」は、今もたくさんの方に見ていただけているようです。このブログに巡り合っていただけたこと、感謝しております。
振り返ってみれば・・・・なのですが、私にとってこのブログは、
モラハラに悩む人々に対する一つ一つの「気づき」を持ってもらう機会になればと
思って作った面もありますが、私自身の怒りや恨みを表出する場でもあったと思います。
自己愛性人格障害というものがある限り、モラハラも無くなりません。
そして、当事者の苦しみも今見ていただいている方々の中で間違いなく現在進行形で沸き起こっているのだ・・・と感じています。
他の記事でも書いていますが、「モラハラ」を自覚させるよりも「自分は被害者であり当事者なのだ」と自覚するほうがよほどハードルが低いです。
しかし、それは「自分は愛されていたわけではないのだ」と自覚するステップも踏まなくてはなりません。
相手は「自己愛性人格障害」であり、自分が常に正しいポジションにいなくてはならない。常に上でいなくてはならない。常に支配者側でいなくてはならない。
相手は、そのための手段にすぎません。激しい愛情なのではなく、ただそれだけのことなのだ、という事を自覚するというのは被害者にとっては辛いことです。
特に、無関心よりはいい、激しく愛してくれているからだと思い込みたい心理がふつふつと沸いてくるうちは、被害者はとにかく頑張ります。特に独りが怖いという被害者ほどそういう道を選びます。
相手から攻撃されるから、自分の悪いところを直さないといけない。
色々試して、相手の心地いいタイミングを探して、頑張って。
それは、被害者の一つの愛のカタチなのかもしれません。
しかし、それでも相手は「常に正しい」「常に上で」「常にコントロールする側」でいるために愛という言葉を利用します。
逆に言えば、自己愛性人格障害がある限り、加害者の「愛」はそれが限度なのです。
その愛を手放す覚悟が無い限りは、「被害者でいたほうが都合が良い」こともあるでしょう。
一緒に居れば、強烈な関心は持ってもらえます。行動も毎回制限されるでしょう。独りではありません。
けれども、「独りであることが怖い」からその愛を手放せないといった場合には、そのモラハラ被害者から離れたとしても、おそらく違うモラハラに遭う可能性があります。
強烈に愛してほしい、と思う限りは。
加害者をどれだけ恨んでいても、被害者の本当の敵は、モラハラ加害者ではありません。もっと先にあります。
周りに誰か(自分に強烈な意識を向けてくれる人)がいなくなって、自分が自分の心と対峙しなくてはならないとき。
「自分は無価値だ」と無意識でも意識的にでも思う気持ちが強いほど、人は自分と対峙したくなくなります。
モラハラ加害者の場合はざっくり言うとここが病的に強く、さらに自覚できない点が問題ですが、被害者は違います。
なんとなくわかるはずです。
「自分は無価値だ」「誰かが愛してくれないと満たされない(完成しない)」という気持ちが、自分自身と対峙する時間をとにかく避けようとします。
ここまで書けばなんとなくピンとくると思いますが、被害者の課題と加害者の課題は本来、同じなのです。だから強烈に惹き合うといってもいいでしょう。
ただ加害者は何度もいいますが「障害」を有しています。自分に目を向けたくないから相手のことばかり気にするのだ、という自覚は、可能性的には一生できないと考えていいでしょう。
しかし被害者は違います。なので、この話を今ここで書いています。
自分で自分の課題を見つめたくないと、自分に目を向けずにすむような、「強烈に自分のことを見てくれる相手」を探します。さらにいえば自分も相手に強烈に意識が向くので、より自分のことを見ずにすみます。
この文章は、おそらくモラハラ加害者に向き合っていて真っ只中の被害者の方には響きません。ただ、もう色々と試したがお手上げで、加害者から離れるかどうか迷っているが、独りになる勇気はない・・・という方にとっては小さな一助になるはずです。
無視される人
無視する側というのは、
無視が有効であると判断したときに無視します。
無視される人というのは
無視されても何も言えない人が多いです。
何が原因で相手が不機嫌なんだろう?と悶々と
考えさせられるはめになります。
その「考える」という時間こそが無視する側が作りたいもので、
「自分の何が原因なのかはっきり知らしめたい」
と考えている場合が大半です。
なので、「自分の何が原因だったんだろう?」と考えて考えて、
落ち込むような人には効果てきめんです。
それを理解している人は無視というものを多用するでしょう。
そして、なぜ直接的に相手に言わずに「無視」という
形をとるのかというと、
相手にいうのが面倒くさかったり、言わないとわからないようだと
なんの意味もない、気づきの機会を与えなくては!
というような少し上から目線の発想であったりします。
自己愛性人格障害者の場合は、相手に直接的に攻撃しなくても
無視という手段を使って「相手から、何かアクションを引き出す」
ということに長けていますから、無視というのは
とても利用しがいがある行動なのです。
無視、一見無関心にも感じますが、
実際のところ強烈な関心ともいえます。
無関心というのは、相手がどう反応しようと興味がありませんし
関係ありません。
しかし、無視によって引き出したいのは相手が思い通りになること・・・
反省したりとか、反省したうえで無視している側の思惑どおりに
動くことなのですから、
無視している間はターゲットの反応に最も注意を払っています。
無視されたときのダメージ
無視、というのは
直接的な暴言を吐かれているのと同じくらいの
精神的ダメージが加わります。
無視くらいなんだ?こっちも無視しかえせばいいじゃない!
と返せる人ならばよいのですが、
無視というのは思っている以上に人格否定をなされているように
感じ取ってしまうものです。
なぜならここにいるのに、ここにいないように扱われる、
それくらいの悪意を持って、行動としてぶつけられるわけですから。
騒がれるよりもまだ無視されたほうがいい、
というようなパターンだとそれも良いのですが、
そういう人に対して自己愛性人格障害者は無視という行動は
なかなか長期的に使いません。
無視をされて、明らかに戸惑っていたり困っていたり、
見るからに落ち込んでいるほうが
無視というものは効果があるぞと考え
どんどん無視しようとします。
無視というのは
無視されている人間の自己肯定感を低くします。
無視だけでなくてもモラハラ自体が
もともと低い自己肯定感に拍車をかけて
どんどん自分の価値が失われていくような
感覚に陥るのですが、
無視そのもののダメージ、無視された側に与えるストレスというのは
「何が悪かったのかすら分からず、自分で考えるしかない」
という過程もありますからそれを考えているうちに、
「無視されるほどのことをした自分」という答えに至りやすく、
余計に苦しむはめになります。
無視はこどもっぽさを表す
ところで、
自己愛性障害者は無視という方法をよく使うのですが、
普通の人は無視は使いません。
職場でも同様です。円滑なコミュニケーションができなくても、
無視という態度をとるまでに至るには、
確実に「無視をしている相手」に原因があります。
無視、というのは職場だけでなくても
家庭内でも起こることです。
そして自己愛性人格障害の有無にかかわらず、
無視する人というのは一定数存在します。
無視、というのはまず直接的に相手に指摘しなくても
勝手に相手が自分を不愉快にした原因を探ってくれます。
いちいち、自分から何が原因だったと言わなくてもいいのです。
ただ、何が原因だったと言わなくても
わかるべきだ!
という考えというのは傲慢でしかありませんし、
その考え自体が自分と相手の区別がついていないことにもなります。
相手が、いくら大切な人間でも他人の心をすべて
読み取ることなどできないのです。
大切な人だからこそすべてわかってほしい、と思いがちですが
大切の度合いと相手の苦しみが一つ一つわかるかどうかは
また別の話です。
そう言っている人ほど、相手の苦しみをわかっていないことが多いのも
また事実です。
自分から相手に何が不満だったか
「自分の意見を言わずに(悪者や我儘にならずに)相手だけに
解決させよう」という無理難題を吹っ掛ける行為、
それが無視ということになります。
自分の意見と相手の意見をすり合わせる
大人の対応をしない時点で、それはこどもっぽさを表しているのです。
ハネムーン期、という言葉への抵抗感
ハネムーン期という言葉があります。
暴力などが一時的に落ち着いて、
優しくなったりする時期のことです。
これは、「身体的DV加害者」に関わらず、
自己愛性人格障害者にも同じことがいえます。
なぜなら、自己愛性人格障害者=DV加害者だからです。
自己愛性人格障害者は、
精神的DV。経済的DVに偏ることが多いですが、
身体的DVも行うことがあります。
しかしDV加害者というのはどうしても
「身体的DV」の加害者だという認識が強いので、
ハネムーン期という言葉にぴんとこない
モラハラ被害者もいるかとは思います。
DV加害者というのは好き好んで、虐待を面白がって
手をだすような人のことであって、
自己愛性人格障害者の場合は
「仕方なく」手を出しているわけだから
DV加害者ではない、という考え方の人もいるでしょう。
しかし、DVというものは
「お前が怒らせたんだ」とか
「お前がちゃんとしないからだ」という形で
起こります。
加害者もそう思っていますし、被害者もそういわれればそうなのかも、
と思うのがDVなのです。
しかし、やはりそれでも
モラハラはモラハラで、ハネムーン期とかいう
DVのサイクルとは違う、本来の彼はこういう人で、
ハネムーン期などではなくこれが本当の彼なのだ・・・
と考える人もいるでしょう。
それこそが、洗脳ともいえるのですが。
合理化の方法
防衛機制で、合理化という
都合のいい防衛機制があります
(だいたい防衛機制は自分に
都合のいいものばかりなのですが)。
有名なのは高い木の枝になっている実が
どうしてもとれなくて、
そのとれない悔しさや悲しみを和らげるために
「どうせ、あの実は苦くてマズい」と
決めつけて、ショックを軽減させる例です。
自己愛性人格障害者の場合、
この合理化は言い訳、自己弁護、また相手を非難できる
理由を作り上げるのに使われます。
自己愛性人格障害者が最も用いることの多い
防衛機制ともいえるかもしれません。
合理化というのは、ものすごく都合のいい言い訳です。
自分があの大学に入らなかったのは、
あの大学に入ろうとしていたメンツが
自分の嫌いなやつばっかりで、
あの大学の価値もそうでもないんだなと思ったから。
・・・とかいう発言をしたりします。
実際はその自己愛性人格障害者は
大学を受験していて、入ろうという意志を見せていたのに
落ちてしまったから、そういうことを言って(考えて)
自分への負担を和らげていたり、
自分の自尊心がそこで損なわれないように、評価が落ちないように
そういうことを周りに発言することがあります。
「自分が大学に落ちた」という事実がショックなので、
「大学自体の価値を下げる」ことと、
「そんな大学に行くような人たち」の価値も下げてしまう。
そうすると、「自分は選んであそこにいかなかっただけだ」
という言い訳、自己防衛ができます。
しかし被害者や第三者はそこで、
「嫌いなやつばっかりで入りたくない、価値のない大学だと
言っているのに、受験はしたんだな」
という矛盾に気が付きます。
しかしそこをつついても得にならないので
つつかないだけです。
合理化というのは、
本当のことを隠して実際はこうだった、という
自分の中での防衛を事実として語るため、
矛盾が生じることは必然なのです。
自己愛性人格障害者を許す必要はどこにもない
自己愛性人格障害者のやり口というのは
非常に卑劣です。
本人は卑劣どころか正義の裁きだと思っているのですが、
時には暴力も伴います。
そうさせた相手が悪い、
正義であるはずの自分にそうさせていること自体が
罪だ、と言わんばかりの暴挙に出ますが、
「自分も悪い部分があるのかも」と思う必要はありません。
ただ一つだけ言えるのは、
自分がいい悪いは別として、被害者は被害者としての
資質を備えていて、それが自己愛性人格障害者を
引き寄せる原因となったこと。
この性質をどうにかしなくては、
自己愛性人格障害者の押しに負けてしまい、
また同じことの繰り返しになることもあります。
被害者が悔いる点はそこだけで、
「自分が問題となる行動をしたのじゃないか」と
考える必要はどこにもありません。
何を考えなくてはいけないか、というのは、
相手が怒っていて、モラハラしているのは
「自分が問題となる行動をしたのじゃないか」
という思考になる、その過程・・・
そう思ってしまう、何ならそう強く思い込んでしまい、
そこから抜け出せなくなり、修正をし続けて
モラハラを受け続ける・・・
そのこと自体が問題であるといえます。
そもそもモラハラをする「側」も
自己防衛のためにモラハラをしているわけなので、
とにかく被害者を強烈に追い詰めます。
そのこと自体を許す必要も、
「自分のせいなのかも」と思う必要も
どこにもないのです。